真田三代について
真田昌幸【さなだまさゆき】
世の動きに合わせて果敢に立ち向かい、小国であった真田家を戦国大名として躍進させた知謀の将。
九度山にあっては、赦免によって国許に戻れる日を待ちわびる身となり、長男・信之に生活の苦しさを訴える手紙なども送っている。
1611年(慶長16年)、願いもかなわず九度山で病死する。享年65歳。
※真田昌幸画像:上田市立博物館蔵
武田信玄に重用された真田幸隆の三男・昌幸は、長篠の合戦で兄二人が戦死したことで、家督を継ぐことになったんだ。
武田氏滅亡後、織田、北条、徳川、上杉、豊臣…と服属の将を替えて戦国を生き抜いた昌幸。
家康が最も恐れた男と言われているよ。
真田幸村(信繁)【さなだゆきむら(のぶしげ)】
家臣やこども達に囲まれ、地元の民とも信頼関係を築いた九度山での生活。
父・昌幸とは九度山で死別し弔うこととなります。
豊臣方の誘いに応じて大坂城へ向かう時、見張りの居る立場でありながら、地元の民の協力があって九度山を脱出できたと言われ、幸村に従属した者もあったそうです。
※真田幸村画像:上田市立博物館蔵
幸村が九度山から兄・信之の家臣に「焼酎を送ってほしい、途中でしっかり蓋をして」とお願いした手紙も残されているよ。
※幸村が九度山から兄・信之の家臣に送った書状 高野山蓮華定院蔵
真田大助(幸昌)【さなだだいすけ(ゆきまさ)】
1602年(慶長7年)、幸村が36歳の時、長男・大助が誕生します。
九度山での隠棲生活の中で生まれ育った大助ですが、幼い時から父と共に紀の川で水練を試みたり、文武に励んでいたようです。
幸村が大坂入城する際に同行します。
1615年(慶長20年)、大坂落城となった時、秀頼の傍で自刃します。
最終更新日:2017年1月30日